[映画]ブロークバック・マウンテン その2
まだネタバレ無し。
やっぱりこの話は、「カウボーイ」というのが鍵なわけ。
世の中には、ゲイであることがある程度容認されるであろう職業や社会的グループがある。例えば芸術家の類。デザイナーなんかもそうだろう(多分)。その一方で、カウボーイというのは、おそらくは一番ゲイであることを許容されない人種なんじゃないかと思う。何しろカウボーイは、西部開拓時代以来、「フロンティア精神」と伝統的な「男らしさ」の象徴で、保守的なアメリカ人男性のアイコン的存在、ある種の理想的男性像であるのだから。そんなわけで、観念上、カウボーイとゲイが相容れないものであるのは当然っちゃ当然。
だから、「ゲイのカウボーイ」という題材は、日本人が想像する以上に(一部の)アメリカ人にとってはショッキングなんだろうと思う。
それから、「ブロークバック・マウンテン」の舞台がアメリカの保守的な片田舎(ワイオミング)であるということの意味をよくよく分かってないと、この話のどうしようもない哀しさは全く伝わってこないんじゃないだろうか。
少し話が飛ぶようではあるけれど、思い出されるのは先のアメリカ大統領選挙である。当時、日本では、対テロ、イラク戦争が大統領選の最大の争点であるかのように報道されていた。もちろんそれは正しい。しかし、在米の複数の知人友人らの話を総合すると(受け売りで申し訳無いのだが)、どうも影の、というか真の争点はイラクでもテロでもなく、同性愛婚や妊娠中絶の是非-要するにキリスト教的な倫理(モラル)の問題-にあったようなのである(もちろん、こういう見方も事実の一面を捉えているに過ぎないのだろうけれど、イラクにせよ同性愛・中絶にせよ、結局のところキリスト教に帰結してしまう問題であるあたり「なんだかなぁ」ではある)。とりわけ、ブッシュの強力な支持層である中西部(ワイオミングも中西部に入る)の、キリスト教的に保守的な層にとってみれば、同性愛婚や中絶を公的に認めようとするケリー及び民主党の姿勢はまさに悪魔の所業であり、到底容認することができない、そういうことであったらしい。
これが2004年のお話。
日本の田舎の凄まじさといえば横溝正史だが、アメリカはアメリカで、全く別種の田舎の凄まじさがあるということである。
一見、技術的にも思想的にも世界の最先端を突っ走っているかのように見えるアメリカは、その一方ではまるで中世ヨーロッパを彷彿とさせる、頑迷な保守層を内包している国であり、むしろそういった保守層こそが「アメリカの主流」なのではないか、というのが昨今の私の印象である。少なくとも、いわゆるリベラルと保守との間で、強烈な二極分化が起こっているように見える。
「ブロークバック・マウンテン」の設定は1963年から20年、ラストは1980年代である。決して大昔のことではない。むしろ、この話は現在に生々しく繋がるものと捉えてもさほど問題が無いような気がする(ちなみに、ワイオミング州では90年代に、一青年が「ゲイであるが故に」虐殺される事件が起きている)。
なかなか映画の本筋に入れないなぁ。次こそは、ということでその3に続く。
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