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2014年1月21日 (火)

クリスチャン・ツィメルマン ピアノ・リサイタル

2014年1月10日(金)午後7時開演 武蔵野市民文化会館 大ホール

<プログラム>
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第30番ホ長調 Op.109
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第31番変イ長調 Op.110
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第32番ハ短調 Op.111

武蔵野文化事業団HP

この日は階段状になっている右手のお席で。
ちょうどピアノの蓋よりちょっと高いくらいの位置で、音がよく飛んできて良かったです。

行けなかった8日のすみだの感想などをチラチラ眺めていたら、微妙な感想が散見されたので多少心配していたのですが、結論からいえば、去年とは別人か?という印象で、3公演中ではベストだろうと。
楽譜は置いてましたが、ずっと見ながら弾いてる感じの弾き方ではなかったです(まぁ至近距離ではなかったので詳細はよく分かりませんが)。

30番は幻想と慰撫に満ちた、愛おしくも神々しい世界でした。
水晶のような一楽章に、キリッと力強さを出した二楽章が好対照。
三楽章では水彩絵具の雫をポタッポタッと紙に丁寧に落としていくような音の連なりが印象的でした。
フーガを弾くツィ氏は、飄々としていてどこか楽しげでもありました。
30番って後期ソナタの中では一番小奇麗なところがあるというか、規模というか粒が小さいような印象がありましたが、なかなかどうして、終楽章で音楽の風景が壮大に広がっていく様と抑えきれない高揚感を、そして最後には見事な収束を見せてくれました。
あれはほとんど解脱みたいなものかも。
この昇華された世界が、次の31番の冒頭にすっと繋がるな、とも。
そして、今回、一番変化が著しいと感じたのが31番でした。
1楽章は比較的早めのテンポに感じましたが、音符が多くペダルが長い箇所でも響きが混濁することなく、とても幻想的な響きにきこえました。
一つ一つの音の粒立ちや滑舌の良さよりは流れや響きを重視するような所もあり、フーガもそういう表現だったと思いますが、これは意図的なものかな。
今回の31番では、たっぷりとしたタメや、ブレスの深い間(ま)が生まれていて、それがいかにもツィメルマンさんらしくもありました。
そうした緩急は独特の時間の流れを感じさせるものでしたが、決して恣意的に響かず、むしろ、音楽が落ち着くべき場所、安息の地を見出したかのような、そんな安堵感を抱かせる演奏でした。

前半は特に、音楽がしっかり手の内に入って、こうしかあり得ない、そんな説得力を帯びているような印象を受けました。
フォルテもしっかり腰が入った音が出ていてまずは一安心。

後半の32番は凄演だったとは思いますが、それが必然なのか、結果的にそうなっちゃった、のどちらかなのかは分かりません(まぁ「結果的に」なんだろうな……)。
31番は大分落ち着いたなぁと思ったんですが、32番も同じような方向性なのかと思いきや、特に1楽章は全然落ち着いてなかった……。
むしろ余計荒ぶっているというか、嵐のようというか、ますますロウ(生、じゃなくて生煮えか)。
1楽章は、なんだか生傷から血が噴き出しているようなイメージ映像が目の前をちらつきます。
まぁ、これは必ずしもミスが多いという意味ではないのですが。
他方、2楽章は自らの内に深く沈みこんで静かに自己を見つめ、徐々に浮上して自分の外に果敢に手を伸ばして、最終的に解放を得た、そういう音楽であったように思います。
割と分かり易く闘争の末のハッピーエンドという感じではあったんですが、奏者はこういう闘争を思い描いているのかしらん、と若干訝しく思ったりもして。
そういうヴィジョンを確固として抱いた結果の演奏なのか、今のところ不可抗力的に「闘争」になってしまっているのかよく分からんというか。

というわけで、特に32番はサントリー待ち。
まぁでも刻々と変化しつつ、着々と上がってきているようで、ほっとした夜でありました。

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